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Re4 :日中線の客車運用

 投稿者:maffei4100  投稿日:2018年10月28日(日)00時17分59秒
  クモイ103様
ありがとうございます。ぜひよろしくお願いいたします。
S49の喜多方での貴重なお話ありがとうございます。C11の回送情報も貴重ですね。前回の記事及び会津村松での写真も拝見しました。同日中に2度日中線に入られたのですね。喜多方から会津村松まで歩いてそこから623レで上三宮まで移動されたのでしょうか。途中駅もおさえるのは素晴らしい攻め方だと思います。
このようなローカル駅、しかも盲腸線の途中駅で昭和50年代まで普通貨物の扱いが実際に行われていたというのは稀有な例で奇跡的とも言えると思います。宮内明朗氏撮影のビデオに、上三宮でC11が2輌の有蓋車を側線に押し込むシーンがほんの少し写っていますが、これは貴重な映像だと思って気に入ってます。
仙コリ様
会津加納にご縁があるとは羨ましい限りです。同駅の往時の写真を見るとその活気にはワクワクさせられます。私が日中線に乗ったのは昭和56年4月で鉱物輸送のホッパーや側線は撤去されていたものの、駅舎側の貨物側線や上屋は残っておりました。と言うより日中線は会津村松の貨物上屋がなくなっていた以外、駅舎、貨物上屋ともに(よく言われるように荒廃していたものの)残っており、初めて触れる「ローカル」に興奮した記憶があります。
 
 

Re3 :日中線の客車運用

 投稿者:クモイ103  投稿日:2018年10月27日(土)20時37分43秒
  maffei4100 様、はじめまして。
日中線には私も興味があるので、話題に参加させていただきます。

仙コリ様
日中線関連の客車運用表をお持ちとの事、貴重な情報ありがとうございます。
昭和57年11月改正の当時、日中線はすでに特定地方交通線の第一次廃止対象に指定されていたと思います。
そのような線区の客車運用をわざわざ本線と絡むように変更することは考えにくいな…と思っていましたが、
やはり客車運用は独立したままだったのですね。

maffei4100 様ご指摘の「磐越西線622レ」、そういえばそういう事があったな、と思い出しました。
確かに200番台が基本の磐西線にあって600番台の日中線の列車番号をつけている事と、
何より喜多方駅において日中線622レと重複していることは実に不思議でした。
理由は謎ですね。基本的に同一駅に同一番号の複数の列車が共存することはできない筈ですが、
もしかして「あちゃー、やってしまった」と気付いて日中線の622レの方を変えて誤魔化したのかも…



磐越西線622レの前身である244レには、昭和49年9月に乗りました。
この時は日中線621レ~622レで熱塩まで往復し、喜多方で244レに乗り換えて会津若松へ戻りました。
622レが喜多方に到着した時、磐西下り副本線の3番線には客車4両の新津方にDD51がついた編成が停まっていました。
これが仙コリ様のお話にある223レで到着したものでしょう。
当日は休日だったため野沢行きはなく、牽引機がついたままだったのですね。

621レのC11は前向き牽引でした。熱塩に転車台は無いので、折返しの622レは逆向きとなりました。
喜多方に到着すると、2両の客車を日中線ホームに置いて、C11は機回し線からいったん新津方に引き上げ、
構内をぐるっと大回りして、3番線の編成の会津若松方に連結されました。
すなわち 逆C11+客車4両+DD51 という編成が出来上がり、これが244レとなったのです。
(実はDD51が最後尾についたまま走り出したかどうか確認していないのですが、あのまま喜多方に居ても
 用事はないと思われますので、そのままぶら下がって会津若松の基地に帰っただろうと推測しています)

写真は今まさに244レの編成に連結しようとするC11です。



ちなみに手元にある当時の時刻表に、拙い私の筆跡で次のような書き込みがありました。

 15:04 → C11の回送 → 15:27

おそらくそのあと構内見学した会津若松運転区で入手した情報なのでしょう。
なお当日午後の牽引機もこのC11 204でしたが、623レが逆向き、624レが前向きと反転していました。
623レを会津村松駅で出迎えた写真を、2011年 6月 5日(日) に投稿しております(倶楽部メモ(658))。
 

Re1:日中線の客車運用

 投稿者:maffei4100  投稿日:2018年10月27日(土)18時01分17秒
  仙コリ様
さっそくにありがとうございます。昭和58年6月の運用表でしたらおかげ様で正に疑問解決です。やはり日中線用の客車は廃止までずっと一日中喜多方に詰めていたわけですね。
それにしても、違う運用の2つの客車群を同じ時間帯に同じ場所で同じ列車番号に使うこと、しかも現存する日中線の列車番号を磐越西線の番号を変更して使ってまでその状況をわざわざ作り出したことは不思議です。また、後になって日中線の方の番号のみ変更(620レ)するとは、前のメッセージを自ら否定するかのようで、さらに謎に思えます。仙コリ様のおっしゃる通り、機関車が熱塩から会津若松まで通すことを反映するため、というくらいしか全体の整合が取れる解が思いつきませんね。

因みに、私の手元には昭和59年4月1日(日中線廃止の翌日)付の仙コリの客車運用表があります。
仙コリ様のおっしゃる通り、この運用表でも223レ編成の前部は野沢まで行って上り1224レにくっついて会津若松に戻り、後部は喜多方から622レとして折り返すようになっています(この一連の運用は古くから変わってないようですね)。但し、この運用表ではこの運用は前部編成が【仙附55】2輌、後部編成が【仙附56】2輌となっており、仙コリ様が示していただいた3月以前のものから変わっています。因みに4月1日運用表では【仙52】は1233,1226,2243,2244であり、この運用は同月8日の越後線・弥彦線電化に伴ってたったの7日間で新津区(50系)に移管され、これによって最後のスハフ32である仙コリの3輌が運用を離脱しています。

(運用表という動かぬ証拠をいただいた以上、以下はもはや意味がありませんが)
前回の私の仮説では、日中線から戻った622レが機関車ごと【仙附56】(と言うより3月以前なので【仙52】)にくっ付いて計4輌(【仙52】であれば計6輌)で622レを名乗って会津若松に帰ったのかなー、と思ってました。
さらに、夕刻に新潟から来る1230レが57.11改正まで(この時代は230レ)は喜多方でわずか3分しか停車しなかったのに、同改正により約20分の停車に変わっていることから、この列車の後部2輌が切り離されて日中線623レになったのではと考え、朝の622レの客車がいったん会津若松に戻ることの傍証になると思った次第です。さらに意味のない話をしますと、長らくオハ61+オハフ61だった日中線に、末期には35系や43系が入ったのもこの話とつながるのかも、と思いましたが、これはやはり単に仙ワカの61系の廃車や転出によるものなのでしょうね。

*626レで1日のお勤めを終えた日中線の客車は磐越西線234レにくっ付いて会津若松に帰ったのでしょうか。

楽しい想像をさせていただき大変ありがとうございました。可能であればぼくも今後たまに参加させてください。
 

Re:日中線の客車運用

 投稿者:仙コリ@管理人  投稿日:2018年10月27日(土)01時03分4秒
  maffei4100様 初めまして

当掲示板「客車倶楽部」管理人の仙コリといいます。

この「客車倶楽部」は「鉄道」特に「客車」に関する話題であれば自由に語り合える場として
運営しておりますので、maffei4100様の書き込みは何ら問題なく、むしろ大歓迎であります。

以前書き込みしたこともありますが、私の母の実家が日中線沿線にあり、小さいころに祖母と
いとこと一緒に蒸気機関車牽引時代の列車に乗車したこともある思い出深い路線であり、この
「客車倶楽部」でも度々話題に上がっていますが、特定の列車や運用に関するご質問なので、
きちんと調べてからお答えしようかと時間がたってしまい、不安にさせてしまったようで
申し訳ありませんでした。

日中線の運用については、昭和58年6月現在の運用表を持っていますが、maffei4100様のお書き
になっている通り、朝の621レとして会津若松からの通し運用で日中線に入り、昼間は喜多方駅
留置で夜は626レとして会津若松へ戻っています。

この日中線の運用は「仙付55」運用でオハフ・オハの2両での運用なのですが、問題の磐越西線
の622レは「仙52」運用でスハフ・スハ・スハ・スハフの4両での運用で別物となっていまして
夕方の2244レとして郡山に向かいます。

といったことで日中線の622レと磐越西線の622レは運用上まったく別の列車であるにも関わらず
おっしゃる通り、あたかも同じ列車のような時刻、同じ列車番号で運転されていました。

その謎を解く鍵と思われるのが、磐越西線の会津若松から新潟方面へ向かう2番列車である223レ
であり、この列車は上記「仙52」運用と「仙付55」運用の併結で運転され、「仙52」運用は
喜多方で折り返して例の磐越西線622レとなり、「仙付55」運用は野沢まで行き、折り返して
新潟発の1224レの増結車両として会津若松へ戻っています。(日中線運用の翌日の運用です。)

このとき喜多方で切り離される「仙52」運用は機関車が無くなるわけで、折り返しである
磐越西線622レには、直前に喜多方駅に到着している日中線622レの機関車が使用されていて
機関車の運用上622レという通しの列車番号がつけられた可能性があるのかと思います。

もっとも客車はまったくちがう運用で、当然乗客は乗り換えなければならない状況で、同じ
列車番号にするのは非常に疑問ですし、223レが最初からプッシュプル運用の可能性もあるので
上記の考えは的外れの可能性もあります。

あくまでも私の推測ですので、詳しい事情をお知りの方がいらっしゃいましたら、フォローして
いただけると助かります。
 

日中線の客車運用

 投稿者:maffei4100  投稿日:2018年10月26日(金)21時20分3秒
  昨晩日中線に関する質問をさせて頂いたものです。投稿が初めて且つ投稿してから皆様の情報を拝読させて頂き、お作法もわきまえず不躾に乱入してしまった事に気づきました。深くお詫び致します。恥ずかしながら当サイトの存在も存じ上げず、たまたま発見してすぐに自分が知りたい話を気軽に投げてしまった次第です。どうかご容赦ください。当方の疑問はもしかしたらよく知られた話かも知れず、もしくは当該時期の運用表があれば即判明することですが、どうかご教示頂ければと存じます。  

日中線の客車運用

 投稿者:maffei4100  投稿日:2018年10月25日(木)23時53分6秒
  ご存知の方がいらしたら教えてください。
磐越西線に、昭和30年代からほぼ運転時刻が変わらない244レという喜多方→会津若松の朝の上り列車がありました(200番台は磐越西線の基本の列車番号)。この列車が昭和57年11月ダイヤ改正時に突然622レという番号に変わりました。これは日中線の朝いちばんの上りと同じ番号です。しかも日中線622レの喜多方到着時刻と磐越西線622レの喜多方発車時刻は20分程度しか変わらず、あたかも日中線の列車がそのまま磐越西線に乗り入れて会津若松に帰ることを示唆しているように見えるにも関わらず、時刻表上ではあくまで別の列車として載っています。さらに不可解なのは、日中線廃止の約5か月前の昭和58年11訂補の時刻から日中線の方の622レだけが、これまた「わざわざ」620レと変更されています。

定説(というより事実でしょう)では、日中線で運用される客車2輌は朝一番の下りのみ会津若松を始発として喜多方から日中線に入り、上りとして喜多方に戻った後は夕方の2往復までそのまま喜多方駅の日中線ホームで昼寝していたことになっています。ところが、上記にように57.11改正時に磐越西線の列車番号を「わざわざ」日中線に現存する列車と同じ番号に変更しているということは、客車の運用が変更されて日中線622レの客車はそのまま会津若松に帰ってしまうようになったのでしょうか。その場合、夕方の623レの客車は、同列車の喜多方駅発車時刻の直前に新潟から到着する
1230レの後部2輌が切り離されたもの、という仮説が成り立たないでしょうか?

*因みに、磐越西線622レは昭和59年3月末の日中線廃止後も、約1年後の昭和60年3月改正時まで、そのままの番号で存在していました。
 

Re7: マイシ37900について

 投稿者:クモイ103  投稿日:2018年10月 9日(火)20時09分21秒
  jfs 様

形式図からこれほどのリアルな図を描き起こされるとは、お嬢さんも只者ではありませんね。
“幻の”初期案は、一部のディープなモデラ―に良からぬ(笑)刺激を与えそうです…

> 1位側のデッキの扉が扉の形のまま、塞がれている理由が不明

この世代(いわゆるスハ32系の二重屋根車)までの食堂車は、
車端部にデッキが無くても一見デッキ風にダミーの扉をつけた形で製造されました。
スシ37740(前書き込みで誤ってマシと書いてしまいました。失礼しました)も、
またスロシ37950の食堂側も同様です。
当時の客車デザイン上の「こだわり」だったのかもしれません。

外観上も側板が延長されて完全な「デッキ無し」になったのは、
丸屋根の世代(スシ37800、スロシ38000)からでした。

二重屋根の食堂車で車端部の側板が延長されたのは後年の改造によるもので、
おそらく戦後に空気調和装置が搭載されて配電盤スペースが必要になった
スシ37740改めスシ37の一部(後のマシ29 1~4)が最初だったのではないでしょうか。

マシ29 1~4では“デッキ”部分に平らな一枚板を貼り付けただけで、
いかにも戦後混乱期に乏しい資材をやりくりして改造した様な印象でしたが、
後にはシル・ヘッダーまでついて新製当初からの側板の様に美しく仕上げられた車両も登場しました。
改造時期や担当工場などによって細部は異なるのではないかと思います。
 

Re6: マイシ37900について

 投稿者:jfs  投稿日:2018年10月 7日(日)17時30分54秒
  仙コリ様
クモイ103 様
その後昔の書物など引っ張り出し、色々調べましたが、文献や図面においては、初期案の
物も散見しましたが、写真はやはり全て一次改造案の物でした。

やはりこれは初期案では定員が少なすぎるので、乗務員室や喫煙室を廃止して製造したと
考えるべきでしょうね。
いずれにせよ初期案から一次改造案に実際に改造するのは鋼体自体を作り替える必要が
あるので、そのような事を行った可能性は限りなく0に近いと思います。

その後のスロシ37950も同じ窓配置なので、これで一応のスタイルが出来たのではないでしょうか。

それとあと一つ不可解なのは1位側のデッキの扉が扉の形のまま、塞がれている理由が不明です。
後年スハシ38になった時にはデッキ自体が無くなっていますが、なぜ製造時に扉を残したのかも不明です。

添付のイラストは娘に依頼して図面から作成させた、2種類のマイシ37900です。

いずれにせよ我々の生まれる前の車両、見たことも乗ったことも無い客車ではありますが、
客車の世界は奥深くそれを色々調べることは楽しみでもあります。
 

Re5: マイシ37900について

 投稿者:クモイ103  投稿日:2018年10月 7日(日)08時28分21秒
  仙コリ様

鉄道ピクトリアルの記事を踏まえた考察と、図面の模写まで示して頂きありがとうございます。
当該の号は私も持っていましたが、段ボール箱に入ったまま忘れていました(情けない)。

ご紹介の記事は故・岡田誠一氏によるものですね。
(氏が他界されて5年が過ぎました。早いものです…)
確かに「専務車掌室と喫煙室は食堂と1等室の間に」ある配置で、
しかも公式のVC0418とは全体的に異なる窓配置ですね。
部分的な手直しで上図が下図に“化ける”ことはまず考えられず、
もし改造されたのだとしたら、上回りを一から作り直したとしか思えません。

岡田氏が所蔵されていた膨大な資料の中には、本案件ではありませんが
公式に出る前の担当者の私案のような図面まで含まれていたのを私も見たことがあります。

当該図面の出どころもわかりませんし、
岡田氏がどのような経緯でこの図面をピクトリアルの記事に引用されたのかもわかりませんが、
少なくとも岡田氏ほどの研究者が紹介されているのですから、
何らかの事情で国鉄内部にあったものである可能性が高いですね。

“謎の”図面をよく見ると、調理室は同時代の全室食堂車マシ37740にほぼ近い広さです。
その後の“実際の”図面VC0418ではそれよりだいぶ狭くなっていることからも、
なんだか“検討段階の図面”という匂いがするのですが、
おっしゃる通り真相は謎ですね。
 

Re4:マイシ37900について

 投稿者:仙コリ  投稿日:2018年10月 6日(土)12時21分31秒
  マイシ37900について、本当に改造された可能性があるのかを検証するために、2つの図面から
窓割図を作成してみました。

並べてみますと、一等座席部分の窓だけではなく、全体的に窓割がまるで違う状態となって
いるので、このような大規模な改造が行われた可能性は非常に低いのではないかと思います。

よって、クモイ103様の推測のとおり、当初予定された図面と実際に製造された図面が
異なっていて、実車は最初から一等座席定員13名の状態で竣工されたのではないかと
思うのですが、真相は…
 

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