teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
 メール ※掲示板には表示されません(詳細)
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


Re3: 宇高連絡船紫雲丸

 投稿者:クモイ103  投稿日:2018年 9月11日(火)00時07分55秒
  まるい様

重大な点を見落としていました。

前書き込みで述べた「乗客781名、貨車15両、手荷物及び郵便車4両を積載」という情報は、
元土佐丸船長の萩原幹夫氏が記された「宇高連絡船78年の歩み」からの転記です。

ところが実は、紫雲丸の車両積載能力はワム型14両だったのです。

ここでまた別の情報があります。昨日から相談していた知り合いに指摘され気付きました。
昭和29年から36年にかけて、客車ファンの伊藤威信氏が主宰し、有志の会員が情報を持ち寄っていた
「リクライニングシート」というガリ版刷りの同人誌がありました。
昭和30年5月号に谷沢潤二氏が寄稿された速報レポートに、
「沈んだ貨車は次の通り15両、客車は1両もなし」とあって、貨車の車号が記されています。

ツム557、ツム461、ツム358、ツム193、ツム1039、ワ23869、ワム21070、スム1659、
トラ730、ト3356、ワム35639、ト4463、ツ3120、ツム583、トキ16433

前述のように紫雲丸の積載能力はワム型なら14両ですが、
ワムより小さな貨車が含まれていますので、15両載せることができたのでしょう。
逆に言えば紫雲丸の車両甲板は15両の貨車で満杯だったはずで、
とても荷物・郵便車を4両も載せる余地はなかった事になります。

現時点の情報を総合すると、客車は載っていなかった可能性が高い…模様です。


連絡船関係に興味をお持ちでしたら、
「青函連絡船史料研究会」の講演会はご存知でしょうか?
北海道新幹線開業や青函連絡船廃止30周年にちなんだ時期にはメディアにも登場した、
元檜山丸船長の西沢弘二氏が主宰する集まりで、
東京・お台場の船の科学館で春と秋の年2回講演会があります。
 
 

Re2:宇高連絡船紫雲丸

 投稿者:まるい  投稿日:2018年 9月10日(月)22時36分28秒
  クモイ103様
 お返事、また貴重なエピソードを紹介頂きありがとうございます。国鉄が無くなって30年、それからまた遡って30年前の出来事ですからね。無理もないかと。私は当時の交通新聞か、鉄道公報かと考えていますが、なかなか手が出せずにいます。
 紫雲丸の他、昭和20年の青函航路、第五青函丸事故や7月の空襲被害の積載車両(当時は石炭積みトキが多いか、荷物車も?)の事を考えると溜め息が出ます。
 危険物輸送といえば、曖昧な記憶ですが、当時は有川桟橋発の貨物便に限定されていて、トンネル開通後も通過禁止のため貨物便は存続する…という話があったような。でも連絡船廃止前に有川桟橋は廃止されてますね。
 客車の話題では無く失礼しました。
 

Re4米坂線の尾灯

 投稿者:ミキスト  投稿日:2018年 9月10日(月)11時16分18秒
  クモイ1032様,竹中@ノーブルジョーカー様,返事遅くなり申し訳ありません.
お知恵をいただきありがとうございます.地元での裁量の幅が広かったのですね.尾灯に関しては大いに納得した次第です.
お世話になりました.今後ともよろしくお願いいたします.
 

Re: 宇高連絡船紫雲丸

 投稿者:クモイ103  投稿日:2018年 9月10日(月)10時34分53秒
  まるい様 はじめまして。

最初に白旗を上げておきます。申し訳ありませんが、わかりません。
確かに洞爺丸の件では沈没客車の車号を伝える資料がありますが、
紫雲丸については見当たりませんね。
私もこの事に気を留めておらず迂闊でした。
これから調査の課題として気にかけると共に、知り合いにも声をかけて情報収集していきます。
判明したらご報告しますね。

********************

昭和30(1955)年5月11日、宇高連絡船紫雲丸は多数の修学旅行生を含む乗客781名、貨車15両、
手荷物及び郵便車4両を積載し、上り8便として定刻6:40に高松桟橋を出航しました。
当日の備讃瀬戸一帯には早朝から濃霧が断続的に発生していました。
レーダーの監視など警戒に当たっていたものの、結果的に航海途中で進航困難なほどの濃霧に見舞われ、
下り153便(貨物便)の車両渡船第三宇高丸と衝突・沈没し、多数の犠牲者を出してしまいました。

実は同船の衝突・沈没は二度目でした。
一度目はその5年前の昭和25年3月、衝突相手はやはり僚船の鷲羽丸でした。
この時は貨物便としての運航で積載車両は貨車16両だったとの事です。

やや話が逸れますが、事故以外で海に沈んだ貨車もあります。
昭和40年前後の時期と思いますが、新型船の登場で運用を離脱した旧型の青函連絡船を使用し、
危険物を積んだ貨車が車両甲板で万一火災を起こした場合に備えた、海中投棄の試験が何度か行われました。
火災を起こした貨車にパラシュートをつけて海水の抵抗力で船外に排出するという仕組みが、
この“犠牲”の上に確立されました。
実際にそれが使われた事例は聞いたことがありませんが、
あらゆる非常時を想定して予め対策を打っておく姿勢は、今の時代にも通じるものがありますね。

こうしたものを含めた「海に沈んだ鉄道車両」というのも、調べれば奥深いものがありそうです。
 

宇高連絡船紫雲丸

 投稿者:まるい  投稿日:2018年 9月 9日(日)21時03分57秒
  初めて書き込みさせて頂きます。鉄道連絡船に関して興味がありまして、こちらを拝見致しました。
さて、昭和30年の紫雲丸事故では貨車15両と郵便荷物車4両を積載していたとありますが、郵便荷物車の形式番号は何か資料に掲載されているのでしょうか。「四鉄史」には積載貨車の一部記載ありましたが荷物車は無かったかと思います。洞爺丸事故については「洞爺丸台風海難誌」に各船の積載車番号、発着駅まで記載がありました。ご存知の方がいらっしゃればご教示頂けると幸いです。
 

Re3: 米坂線の尾灯

 投稿者:クモイ103  投稿日:2018年 9月 6日(木)21時40分29秒
  竹中@ノーブルジョーカー様

詳細なご教示ありがとうございます。
「運転取扱基準規程」に規定されていたのですね。
学生時代に鉄研の先輩の指導により数名で一括購入した本があったような気が…
こんど発掘してみたいです。
オハユニの件は、やはり混合列車の貨車抜きですか。

# 貨車に詳しい人…一度直接お会いしたいものです(謎)
 

RE:米坂線の尾灯

 投稿者:竹中@ノーブルジョーカー  投稿日:2018年 9月 4日(火)22時57分30秒
  ミキスト様
クモイ103様

車掌車省略の貨物列車に関して貨車に詳しい方に聞いたところ
下記のような説明をいただきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「運転取扱基準規程」(S4006改訂)によれば、
緩急車の省略は第24条で規定されており、
「車掌の乗務を省略できる列車」が対象となっています。

車掌の乗務省略は第25条にあり、
 1.単機
 2.救援または排雪列車
 3.先頭に特殊設備があり運転士が乗る推進運転・・・上野?
 4.「車掌の乗務が省略できる線区」で、支社長または管理局長の指定した
   貨物、工事、回送、試運転列車

車掌の省略線区は第26条にあり、
 ・非自動区間(但し別表に指定する区間を除く・・・主要線区はNG)
 ・停車場外で隣接する本線がない
 の両方を満たし、支社長が指定する線区。

となっています。最も良く見る緩急車/車掌省略の例は単機でしょうか。
八高線のような例は、ローカル線でエライさんが指定した線区に当る訳ですね。

車掌省略時は機関士が車掌業務を代行するとのことで、第25条3項には新興~
入江間や高島の移動操車のように貨物線で短区間の場合は、操車掛が車掌を代
行できると書かれていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
とのことで、オハユニに外付け尾灯は、たまたま貨車が連結されていない
混合列車でだったのではないでしょうか。
 

Re: 米坂線の尾灯

 投稿者:クモイ103  投稿日:2018年 8月31日(金)08時38分45秒
  ミキスト様

米坂線のSL牽引列車の画像ですか。
その年代はわかりませんか?
そうしたルールや運用の事情といった物事は、年代によって変化していることが多いものです。
尾灯のある車両にわざわざ外付けの尾灯が取り付けられているとのことで、理由は2つほど考えられます。

(1)過渡期だった
 緩急車の妻面に尾灯が標準装備されるようになったのは、戦後の昭和20年代後半からでした。
それまでは尾灯は全て外付けで、客車自体と別運用が組まれていたのです。
新製の緩急車が尾灯を装備して落成し、オハフ33など既存の緩急車にも取り付けられていく過程で、尾灯のある車両と無い車両が混在している状況では、従来の外付け尾灯を一律に運用するしかなかったと思われます。
そのような状況は昭和30年代初頭までの一時期だった筈です。

(2)イレギュラーな編成だった
 戦後、緩急車は最後尾に連結されるのが原則になりましたが、一部のローカル線では例外が認められて柔軟な編成が組まれることがありました。
例えば過去にこの掲示板でも話題になった日中線ではオハ61+オハフ61という編成が往復し、オハに外付けの尾灯がつけられていました。
米坂線で緩急車が最後尾に来ない編成が認められていたのかわかりませんが、仮にそうであって、本来その列車は最後尾が非緩急車であるべきところ、何らかの事情で突発的に編成が変更されオハユニが最後尾に来てしまった、という可能性も考えられます。
もしかしたら所定では後部に貨車がつく混合列車で、その日はたまたま貨車が無かったのかもしれません。
そのような状況は、昭和40年代まであってもおかしくない事です。

貨物列車についても、線区によって緩急車の省略が認められていました。
(車掌が機関車に乗務していたのかどうかは知りません…)
私の知っているところでは八高線のセメント列車が該当し、DD51がホキだけの列を牽いていました。
緩急車なしの貨物列車は、おそらく全国に点在していただろうと思います。
 

米坂線の尾灯

 投稿者:ミキスト  投稿日:2018年 8月29日(水)11時48分53秒
  お知恵をお貸しいただきたいのですが.
You Tubeで米坂線のSLの画像を見たですが,最後尾の車両がオハユニなどの尾灯が装着されている車両にも拘わらず外付けの尾灯らしきものが点灯しています.新津あたりのルールだったのでしょうか.
もう一つ,貨物関係になりますが,前後共に車掌車,緩急車が連結されていない貨物列車もありました.途中で組成しない列車などは非連結だったのでしょうか.
よろしくお願いいたします.
 

RM LIBRARY 229

 投稿者:竹中@ノーブルジョーカー  投稿日:2018年 8月23日(木)22時14分46秒
  先月と今月のRM LIBRARYは客車ネタで救援車です。
今だから語れる話題もあり、客車ファンは必携の2冊だと思います。
 

レンタル掲示板
/310