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想い出のフォトアルバム11

 投稿者:ユーラシア鉄道  投稿日:2009年10月18日(日)19時56分35秒
   福知山線の想い出写真です。

 事故問題でにわかに喚起されていますが、長閑な時代の写真です。

<宝塚電化後の高架を行くDD51(中山寺駅東方)>
<中国自動車道下のDD51(中山寺ー宝塚間)>
<阪急雲雀丘車庫下の大阪行きDD51(川西池田手前)>
 

Re: 急行の特ロ

 投稿者:クモイ103  投稿日:2009年10月18日(日)19時54分1秒
  マロネロ38様

特ロがはじめから指定席制だったとは、不勉強でありました。ご教示感謝いたします。
昭和33年10月改正に絡むピクトリアルの記事を読んでも、そのことが読み取れませんでした。
 

中山寺の軍需路線

 投稿者:マロネロ38  投稿日:2009年10月18日(日)17時18分54秒
  戦時中中学生で勤労動員された方の話では、戦車工場だったそうで、結局使用され
なかったらしいです。
C57128は確かに鉄橋の手前で撮影しました。ハエたたきと煙突がかぶらない様にした
のです。広角があればもっと良い写真が撮れたのですが、当時は大学入学祝いに父が
買ってくれた,キャノン4sb,f1.8,50mmしかなかったのであんな離れた構図になりました。
 

急行の特ロ

 投稿者:マロネロ38  投稿日:2009年10月18日(日)10時23分31秒
  特ロは最初から指定席制で席番が決まっていました。特別2等車指定席だったのです。
昭和31年8月10日乗車の602レ大阪→金沢の「特別2等車券」を保存して居ますが、
13時50分発、602列車2号車41番。昭和28年の602レ分裏面には姓名と年齢が書いてあります。
(申し込み書に姓名年齢を書かされた)
昭和33年10月改正で「急行のロはすべてリクライニング車」になって、車両が足り
ないと定員の半分ぐらいが自由席でした。最も特ロの需要が多い急行には従来の
並ロが暫く連結されていました。601-602レは上野‐福井に短縮され、大阪‐富山に
悪名高い鈍足のおんぼろ急行503-504レ「立山」が新設されましたが、これは指定席
スロ60+自由席スロ50か51、「しろやま」などは遅くまで並ロがオロ40の日があり
ました。

当時701-702レの特ロは多分出雲今市→大社間オロ35の客を黙認していたか、発券
当時「異級乗車券」発券だったのか?も知れません。
 

貴婦人C57-128の撮影地

 投稿者:ユーラシア鉄道  投稿日:2009年10月18日(日)10時06分0秒
  <マロネロ38様>

 貴婦人の優雅なるお写真、有難うございます。

 撮影地ですが、中山寺駅を通過後の小川にかかる鉄橋の手前かと
推察いたします。
 現在では「ダイエー中山寺店」の少し東側地点と思われます。

 終戦前後の宝塚界隈の話を、小生の母上(父上は軍務中)に尋ね
ますと、阪急宝塚線でも電車は1〜2両で、沿線周りは竹林の連続
で、空襲警報発令時は、電車が停止し竹林の中に隠れたと申してお
りました。

 戦時中は、中山寺駅南東方向に、軍需工場があり、専用引込線が
(現在も天井川トンネルが自動車道として残っています。)あり、
宝塚村内(当時宝塚は温泉・歌劇・停車場[駅]の名称で住居表示
は兵庫県川辺郡小浜村、長尾村でした。)の米軍空爆目標は、この
軍需工場でした。

 ただ宝塚市内でも中山寺駅(「停車場」の表現のほうが詩的?)
近辺は、コーナン、上新電機ができるまでは日本の原風景が残って
おりました。

 福知山線でこの風景を求めるなら「相野」まで行かなければ?
[相野駅」での、朝夕のみに残る113系通勤「列車」の到着に
合わせた、働く夫の出迎え光景に、汽車時代の憧憬を重ねてしま
います。
 つい2−3年前までは、113系は湘南色の美しい編成だった
のがJR西日本色に変わりました。


 長閑な日本の原風景に貴婦人+旧型客車(当時はこれが当たり前)

     **これ以上のものは、ございません**

 いいお写真有難うございました。

 以前にも掲載させて頂きましたが、貴婦人いるのあたりで撮影
しました写真を再掲載させて頂きます。

<中山寺駅西方・小川を越えたばかりのキハ26X9連>
<  同   ・小川手前ダイエー中山寺店脇のDD51>
 

Re: 急行「出雲」

 投稿者:クモイ103  投稿日:2009年10月18日(日)07時44分33秒
  マロネロ38様

> 大社へ行くオロ35の客はこの区間指定券無しでスロ53に乗れた???

 確かにスロ53(特ロ)は大社編成、オロ35(並ロ)は浜田編成ですから、大社線内では、当時としては異例の特ロのみ連結の豪華(?)列車という事になります。
 昭和30年当時の特ロは指定席ではなく、特別2等車料金を支払って乗る「ワンランク上の自由席車」だった筈ですが、昭和33年10月改正で2等車が指定席車+自由席車の体制に移行した後も、指定席車スロが大社行き、自由席車オロが浜田行きという関係が続きましたから、同じ事ですね。

 時刻表S30-8の大社線の欄を見ますと、「701.702 出雲今市−大社 普通2等なし」とあります。従って、オロ35の客がこの列車で大社へ行こうとしたら、大社線内だけ特別2等料金(300キロまで300円)を払うか、さもなくば下級変更するしかなかったと思われます。
 元々この列車で大社を目指そうという人の殆どは「非日常の特別な旅行」をする人で、当時人気のリクライニングシートの特ロを選ぶ人が多かったので大した問題にはならなかった…のでしょうか?
 今の感覚では、特例措置で普通2等客も特ロに乗車可能なんて事も考えつきますが、当時はそういう発想は無かったのでしょうね。

 なお、その後36-10改正の直前には、指定席車も浜田行きとなり、大社行きはオール「ハ」の編成になっていました。出雲市−浜田間が急行に格上げされたことと関係ありそうですが、「出雲詣で」よりも地元の都市間輸送のウェイトが高くなったという事なのでしょうか。
 

急行「出雲」

 投稿者:マロネロ38  投稿日:2009年10月17日(土)18時54分38秒
  済みません3行目に不適切な用語がありました

過大なご評価→過分なご評価です。
 

急行「出雲」

 投稿者:マロネロ38  投稿日:2009年10月16日(金)15時10分17秒
  ED76109先生
クモイ103さん
拙昨に過大なご評価光栄に存じます。
C55-C57は煙モクモクよりも、薄い煙をたなびかせて走っている姿が一番美しいと
想います。
大阪駅での入れ替えは慌しいものでした、「瀬戸」は機関車が再び連結されるとすぐに
発車して行きました。
当時大社へはハx2+スロ53が行き、スハニ32+オロ35----が浜田行きだったので
すね。
大社へ行くオロ35の客はこの区間指定券無しでスロ53に乗れた???
戦後準急で復活した時は酷いものでした。オハ二30+オロ31+ハは種々雑多で、
滅茶苦茶なのは、スロハ32x2それもローハ+ローハの真中にハが入るなど、どちらか
を転車台で転換してロ側同士連結したら良いのに-----でした。

「石北」の前身は例の「インチキ準急」で網走からC58、遠軽からD51、旭川からC57
だったと想います。
岩見沢で室蘭本線に乗り換えました。W屋根のスロハフ30.
 

Re: 急行701レ「出雲」

 投稿者:クモイ103  投稿日:2009年10月15日(木)22時43分16秒
  マロネロ38様

見事な編成写真を見せて頂き、ありがとうございます。
宝塚の手前でこの風景とは、やはり時代を感じます。

ちょうど昭和30年8月の時刻表復刻版を持っていますので、早速編成図を確認しましたが、正に写真の通りでした。1両目ハニ(スハニ32)は号車番号が無く、2両目ハ(スハフ42)が1号車で以下8号車までの9両編成。図の脇に「1,2,3号…東京−大社 以外は…大阪−浜田」という注釈があります。

ちなみに運転時刻は、東京発22:30、大阪着9:30/発9:50、宝塚発10:20、大社着18:35、出雲今市で分かれた一方の浜田着は20:16でした。
なお、「せと」の大阪発は9:40なので、マロネロ38様が解説して下さった大阪駅での入れ換え作業中、3)から5)までの所要時間は10分以内だったことになりますね。
 

「貴婦人」が牽引する急行への憧憬

 投稿者:ED76109  投稿日:2009年10月15日(木)22時09分1秒
   おばんでございます。「ED76109」であります。

 マロネロ38様

 小生には、憧憬でしかあり得なかった「C57牽引の旧客急行」には感動の一言であります。関係サイト等を確認しましたところ、以下のようであります。

 戦前、「大阪・大社」間に運転されていた「急行列車」が、昭和22年に6月に「昼行準急列車」として運行を復活致しました。しかし、この時点では「いずも(出雲)」の愛称はなかったようであります。その後、同26年の11月に急行に格上げされて、「いずも」の列車愛称を与えられるとともに、編成の一部が「大阪」から「東京・ 宇野」間急行「せと」に併結が開始され、「東京・大社」間の運転となりました。さらに、同29年からは「大阪」から「浜田」発着の編成の連結が開始されたようであります。(「出雲市・浜田」間は快速)
  「福知山線経由のいずも(出雲)」は、鉄道物のミステリー作家「鮎川哲也」氏が、「急行出雲」という「車両の増結に係るトリック」をテーマとした短編推理小説として、また、「松本清張」氏の名作「砂の器」で「今西警部補が亀嵩行」の際の乗車列車として、昭和30年代に取り上げており、名作の舞台としても有名であります。「東京」からほぼ1日かがりで「浜田」まで辿る、夢のような列車。小生は、昭和55年の春に「いなば」で「東京・米子」に乗車した程度で、「出雲」を冠した列車には乗車経験はありませんでした。
 そういえば、「マロネロ様」は当地でも「準急石北」の前身列車で「C57牽引の旧客列車」にご乗車とのこと。まさしく「鉄道黄金時代」のお話、感動しながら拝見させていただきました。ありがとうございました。

 長々と失礼致しました。以上、「旧客レの思ひ出」が走馬灯の如くに蘇ってきた「中年客車鉄ちゃん」でありました。
 

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