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▼ED76 109様:
>「蘭島」と鉄道電話を駆使して列車交換を確認する駅員の姿、
臨時快速「らんしま」に象徴される様に、海水浴地としての蘭島における1980年代の
様子は「ウィキペディア」に、その一端が記されている様に、盛況を極めた様ですね。
海水浴需要がもう少し恒久的だったら、電化区間が余市まで延びた可能性を感じます。
御指摘の南田洋子さんは、終戦直後を、つくば国際大高校の嚆矢である茨城県土浦の
女学校で過ごされています。校地の移転が無ければ、すぐ裏手が常総筑波鉄道筑波線
真鍋信号所(車両基地)だった筈で「グーグル」空撮映像から、現在は同校の校地に
編入された様ですね。当事の女学生がどの程度、鉄道に関心を持っていたかは、甚だ
懐疑的ですが、日常的に「鉄分豊富」な環境にいた事にはなりそうです。
筑波線といえば、後年、同じ関東鉄道に属した鉾田線(のちの鹿島鉄道)の学童遠足
列車「パンダ号」と同様、国鉄から直通していた12系仕立ての臨時行楽列車(日立〜
水戸〜岩瀬〜筑波という便もあった様子)が印象的ですね。上野直通「つくば」では、
14系が充てられた事もあったとか。記録写真を見ると、土浦駅では、頭端式の筑波線
ホームに一旦、転線しており、同ホームや側線が電化されていた必然性が、判ります。
12系自体は1960年代末期の登場なので、南田さんの在学期間とは20年近くズレますが、
一方、当事は樺穂駅と加波山麓を結ぶ、石材輸送用の軌道が健在で、筑波線における
貨物列車は相応に活況を呈していたと推定されます。
画像は、廃止直前の鹿島鉄道は常陸小川駅の様子です。この機関車が「ハンダ号」を
牽引したのでしょう。列車名の「パンダ」とは、日中国交正常化を記念して1972年秋
上野動物園に御目見えした「カンカン」「ランラン」の事と思いますが、その当時の
人気振りたるや、その後の「エリマキトカゲ」「タマちゃん」「カイ君」等の追随を
許さぬ程に圧倒的で、後年「ひらけ!ポンキッキ」でしたか、狸と狐がパンダ人気を
羨む内容の「パンダがなんだ」という歌も有名になりましたね(^^)
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